桃ノ花ビラ





どれ程愛しいと、思ったんだろう。



「…へなちょこめ」

小さく揺れる水面に息を馳せて、悔し紛れに呟いた。
別れはいつも突然であっけなくて、惜しむ暇もないままのそれは数秒の間を置いて落胆に変わる。
側に居たい気持ちはいつだって無視されて、引き離される事は痛みになる。
薄桃色の花弁がユーリを連れ去った水辺に零れ落ちて。
ああ、また行ってしまった。

「グレタが戻るのは明日だったのに残念だったな」

コンラートが後ろで独り言の様に呟く。
全く陛下らしいというか、と苦笑する仕草が癇に障る。
振り向くと慰める様な笑顔を向けてくるところも全部。

「…ユーリはへなちょこだからな!仕方ない」

だからと言って突っかかっていく気力も持ち合わせていない。
コンラートが嫌味なのは、それを解っていて気を遣ってくるところだ。
実際のところ、毎度毎度別れの後は気が沈んでしまう。
手に持っていた葉の船をそっと水面に浮かべた。

「いいのか?陛下の分じゃ…」

「うるさい。いつまでもユーリの帰りだけを待ってるぼくじゃないんだ」

散歩の途中、ユーリに教わって作った葉の船。
お互いのを交換して水辺に流す事になっていたのにその寸前に行ってしまった。
ぼくが流す筈だった船はその衝撃で川下へと流れてしまい。
追いつくのを願ったけれど、行く末を見守るのは怖いと思った。

「…それもそうだな、行こうか」

言葉とは裏腹に優しさを含んだ声に少し悔しくなる。
先を歩き出した背中の数歩後を歩き出す。まるで昔みたいに。
突き放した言葉はぼくがどれだけユーリを想っているかを示しただけだった。
それが恥ずかしいとは思わないが、それだけに生きるのは申し訳ない気がした。
特にこいつの前では、なんとなく。

「コンラート」

ふいに、口をついてしまった名前にこちらが驚く。
逆に待っていたかのように軽く振り向いた笑顔に、見透かされた気がした。

「ん?」

「……無粋な質問をしていいか?」

「…いいよ」

今度は意外だったのか珍しい、と言った表情を見せた。
いつもならもっと無礼な事も気を遣うことなく言ってしまうから、だと思うが。
木々の隙間から差し込む日差しは少し暗めに、しかし涼しげな印象を持たせる。

「お前、今は…その、居るのか?」

「ヴォルフにとっての陛下みたいな相手が、って事?」

薄桃の花が控えめに風に吹かれて舞う。白に近いそれが、ぼくの肩に一枚落ちてくる。
やはり聞かなければ良かった、と思った。
聞いたところでどうだと言う話であるし。

「…まぁ、そういうところだ」

花弁を取ると所在無さ気に視線を逸らした。
コンラートは前を向いているのに、見抜かれている気がしたから。
この手の話題を自分から振るなんて、ぼくはユーリが帰ってしまった事が相当ショックだったのかもしれない。

「そういう人はいないよ」

笑った声。
全く予期していた通りの返事なのに何故だか少し、寂しい気もした。
別に恋をして欲しいなんて思っている訳ではないのだが、それがいつからかという事かが気になった。

「…そうか」

勿論、気になっただけでそれが何十年前かどうかでまたどうこうと言う訳でもないが。
そう言えば、こんな話をしたのはこれが最初なのかもしれない。

「…ヴォルフが其処に興味を示してくれたなんて意外だな」

今度は苦笑した声。
それと楽しそうな笑顔。振り向いたコンラートはぼくを見て、肩を竦めた。

「…別に、ユーリに特別な感情を抱いていたりしたらセイバイしてやろうかと思っただけだ」

言い訳としては半分本気も含まれている時点で成立しないが、冗談混じりに言ってやった。
するとその瞳は細まり、笑い出しそうな程に頬が緩んだ。

「まさか。陛下の事は好きだけど、陛下にはヴォルフがいるじゃないか」

「…それはぼくがいなかったら特別な感情を持つとでも?」

噴出しそうな相手を訝しげに見ると、コンラートはユーリ曰く『爽やかな笑顔』をして首を横に振った。

「恋愛感情にはならないよ、それに陛下はヴォルフに特別な感情を持っているんだから」

特別な感情。その響きに少しだけ胸の奥が温かくなる。
それと同時にユーリが此処に居ない事が寂しくなる。
もしかすると茨の道なのかもしれない。両思いなのに側に居れないということは。

「…そうか?」

「、ヴォルフ」

ああ、きっとこいつは解っているのだろう。
手のひらに閉じ込めた花弁を零すと、ユーリの顔が浮かんできた。
きっとこいつは、ぼくが欲しい言葉も解っているんだろう。
あんなに拒絶したのに、こいつは相変わらず、優しいままだ。

「ヴォルフ、お前は陛下に一番愛されてるよ。…見てて解る」

「…そんなの」

本当は側に居たい事、本当は沢山想っている事。
そしてそれは共有されているという事。
解ってる、解ってる。でも、いつもユーリは太陽の様に皆に平等だから。

「不安になるのも解るけど、陛下はヴォルフを裏切ったりしないよ」

そんなの、ずっと欲しかった言葉だ。
一番ユーリに言って欲しい言葉をコンラートが持ってるなんて何だか可笑しくて、笑えなくなった。

「でも、ユーリの気持ちはユーリにしか解らない」

ユーリと出会って、不安と愛情は同じ速度で募っていくものだと知った。
ユーリが帰る度に寂しさともう帰らないんじゃないかという不安で一杯になる。
今度こそ、永遠に待ちぼうけを食らうのではないかと思ってしまうんだ。

「…まぁ、これは陛下の愛情表現不足だね」

顎に手を当てて、コンラートは呟いた。

「どういう事だ?」

その言葉に不安になりつつも聞くと、うーんと少し考える仕草を見せたコンラートは、意味ありげに笑う。

「帰ってくる度にその間のお前の事を聞いてくるんだ、陛下が」

「は?」

「だから、ヴォルフに悪い虫がついていないかって」

サラリとそう言うと、納得だろ?と言わんばかりに笑ってみせる。
その意味を飲み込むと、心の中にふわりとした感情が浮かんできた。

「…そ、そんなことあるわけないだろっ!」

嬉しくて、でも釈然としない気持ち。そんな事無いと見てて解らないのかあのへなちょこは!

「うん、だからいつもそんな事無いって言うんだけどね」

「当たり前だ!そんなにぼくが信用無いのか…!」

苦笑しているコンラートに八つ当たりの様に噛み付く。でもそれも解っているらしく、独特の色をした瞳を細く緩ませた。

「でも陛下も不安なんだよ。ヴォルフが陛下につっかかるのと同じ様にね。…ヴォルフだって、陛下を信じていないわけじゃないんだろう?」

「それは…」

信じていないわけじゃない。僕を裏切る事など出来ないと思っている。
それでも疑ったり怒ったり、ユーリを困らせる事ばかりしてしまうのはどうしてだろう。
それがユーリの愛情表現不足なのだとしたら、いつになればこんな想いをせずに済むのだろうか。

「…ヴォルフ、そんなに考え込むとグウェンみたいになるぞ」

「っ、」

「陛下は今のヴォルフが好きなんだよ。だから深く考えないでいつも通り陛下を好きでいてあげなさい」

「な、何だそれは!」

年上面で窘められるとムッとしてしまう。
そしてまた歩き出すコンラートに向かって吼えると、楽しげに笑われる。
それは煩わしくて、少しだけ心地良い。

「ヴォルフが陛下に詰め寄る度、陛下は愛されてると思う事が出来るんだから」

「でもそれはっ…ユーリを困らせてる…」

「…うーん、俺にもこういう頃があったのかな」

「どういう意味だ」

「自分達は真剣に悩んだりしているのに周りから見ればそれはとても些細な事だったりするのさ」

歩調を緩めて隣に並んだコンラートは、懐かしそうに瞳を細めて笑った。
それが誰を想っての事なのかはぼくには関係ない。
だが、丁度城が見えてきたその時には溢れ出しそうな寂しさは随分収まっていた。

「…コンラート」

「ん?」

「…ぼくはお前のその笑顔が嫌いだ」

「俺の、笑顔が?」

突然の言葉に方眉を上げるコンラートの傷は、ぼくがこいつを慕っていた頃には無かった物だ。
気付けばこんなに月日は流れて。

「そうやって全てを見透かして、ユーリの事をぼくより解っている所も、ぼくには出来ない優しさでユーリを笑顔にさせる所も」

「…」

「…あんなに辛く当たったのに、ぼくは謝ってもいないのに今でも、こうして笑顔で兄上面してくる所もな」

与えられ続ける優しさに最近やっと気付いたのはぼくがまだ幼いと言う証拠かもしれないが。
じっと見つめて言葉を吐くと、瞳を瞬かせてそれから、コンラートは笑った。
ぼくが嫌いと言ったにも関わらず、それはそれは嬉しそうに。

「ヴォルフ、俺に笑顔が増えたのは幸せが増えたからだよ」

昔よりも沢山、そう言ったコンラートの笑顔はユーリが見せるような邪気の無い笑みに似ていて。
それがもしユーリのせいだったらと考えてぼくは、あの日以来初めてコンラートに向けて微笑んだ。
驚いた瞳を一瞥すると少しだけ歩調を早めて、城門を通り過ぎる。
ユーリという名の幸せ。
次に会ったらもう少し、それを大切に出来るようにしようと思う。

「…ぼくも幸せが増えたからな!」

独り言の様に怒鳴ると、背後で微笑むコンラートが見えた気がした。







end.