追いかけっこ






届いた。
捕まえた。
でも、それだけだった。






執務の合間にちょっと空気を吸おうとバルコニーに出た時、偶然にその姿を見つけた。
この世界では見慣れない、あっちの世界では見ない日は無い位の黒い髪。
そして黒い服、揺れる髪、逞しくは無い体。
声をかける前に顔を上げた相手と目が合った。

「渋谷!」

笑顔で、それこそパッとする程ではないが彼らしい、余裕のある表情。
返すように笑みを作れば右手に持ったカゴを気持ち、持ち上げる仕草を見せる。

「何それ?」

「暇だったから作ったんだ、お菓子!」

今から持って行くよ、休憩のお供にね。と割かし大きな声で返されるとそれだけで、こぶし大の心臓は熱くなった。左手でひらひらと手を振る仕草が素直に可愛いと思える。
サンキュー、と返事をして嬉しそうに微笑んでみると、地上に居る彼はそのまま城内へと消えていく。
此処に来るために。

「ギュンター、すぐ戻ってくるから」

そう言い残すと返事を待つより早く、部屋を抜け出した。本当はこの手摺を乗り越えて、ふわっと視界から消えてしまえたらカッコいいのに、なんて思いながら。
足早に、踊るように。歌うように。流れる水のように、軽やかに。
気付かれないよう、最小限の足音で駆け抜ける廊下は背後に影とスリルをくっつけて、何だか顔がニヤケた。



「あれ、渋谷は?」



部屋に行って枕を沢山掛布の中に入れて、専用風呂の脱衣所に上着を脱ぎ捨て、厨房の入り口にいつも使ってる羽根ペンを置いて。
順序良く、足取り良く。それは初夏の追いかけっこ。
重たいカーテンもそろそろ模様替えしたいな、と階段を下りながら小さく呟いた。
多分そろそろ、通りかかるであろう柱の影に最後の仕掛けを施して。


「渋谷」


ほら、来た。
上着と羽ペンを持っている彼は意外にもお菓子の入ったカゴも持っていた。
執務室に寄らなかったのかな、まぁそれはどっちでもいい事。
此処に来るために持ってこなければならない物をちゃんと彼は持っているのだから。
普段よく使うルートを彼はちゃんと覚えていたんだ。
荷物が何よりの証拠。

「そこに居るんだろ?シャツが見えてるよ」

どんなに上手に隠れても、見っかってしまうのが微笑ましい。
多分そんな事を思っているんだろうと声で感じた。
柱にぺたりと身をくっつけると凄く冷たくて、一瞬身じろいでしまう。
慌てて胸の上に手を当てると馴染んだ肌はヒトらしく温かかった。

「しぶや…」

柱の影を覗いた彼の顔を、この角度からでは残念ながら覗う事は出来なかった。
どこからか吹いてきた風が白いシャツを揺らしている。
動きは明らかに止まった。
でも風はちゃんと動いている。
おかしい。

「…むらた?」

一歩、柱の影から出て隣の柱の前に立つ彼の背中を見つめた。
本能的に感じた違和感をぶつけるかの如く、声は素直な疑問系。
聞こえなかったのか彼は応えることなく、その場に立ち尽くしている。
一歩、一歩近づいて彼の、その柔らかそうで冷たそうで温かそうな左手の指先を見つめた。
そして不思議なくらい自然に、その指は掴まる。

「村田」

触れた指先から想いが駆け抜けた。
静電気の様な柔らかな、痛みを伴うしびれ。
それに身じろぎも驚きもハッともせず、彼は一連の動作の様に振り向いた。
まるで、何かを無くしてしまったかのように。


「渋谷」


彼は演技を続けるように、全く彼らしくない大人びた笑みを浮かべて向き合った。
右手にカゴと上着と羽ペンを持って。左手には手を持って。
それは捕らえられた蝶が大人しく抵抗するのを止めてしまった時に似ている。
蓋を開けても、すぐには飛び立ちはしない。

「楽しかった?」

「うん、神隠しはちょっと前の話だけどね」

「お菓子、ありがとな」

「そう思うなら最初から部屋に居ろよ、って寒くない?早くシャツ着なよ」

「寒くないよ、もうすぐ夏だしちょうどいい」

解ってしまった。
笑いながら、心の隅でそれは染みのように広がる。
今までわざと追いかけっこをしていた事。
そして今、彼が嘘を吐いた事。



その嘘は、今から始まった事。



「そうだね、じゃあ美味しいお茶淹れて貰いに行こう?」

「ん、そうだな」

あっさりと指は離れて、代わりにシャツを羽織り上着と羽根ペンを持つ。
もしかするともう2度とは触れない指先。
もしかするとずっと繋がるのかもしれない指先。
彼が吐いた嘘がいつ暴かれるのかと思うだけで、胸の奥はやたらと熱くなった。






もしかすると、鍵を持つのは自分かもしれない。








end.