tan45°





触れたい。ただ触れたい。

壊れそうだ。

何が?

……何だろう。











「村田!」

「……渋谷」

群青色の空の下、マンションの入り口前に、思ってもみなかった姿があった。
渋谷、きみは一体なぜそこにいるのさ?

「お前帰り遅いのなー、冷えちゃったじゃん」

渋谷は鼻の頭を少し赤くしながら近寄ってくる。
息が、白く色をつけて宙に溢れる。それが空気によく映えて、思わず目を細めた。

「渋谷何してんの?」

「ん、これさ、この前うちに忘れていっただろ?」

差し出されたのは単語帳。そういやそんなものも持ってたっけ。

「あぁ、ありがとう」


…わざわざ、これの為に?


「無いと困るかなって思ってさ」

ん?何、今の言い訳めいた発言は。

「渋谷?」

顔をあげてから後悔した。

「…え?」

…何てカオしてるのさ?

「……しぶ」

「…じゃ、おれ帰るな?」

「…ちょっ、渋谷?」

帰ろうとする渋谷を慌てて呼び止める。
咄磋に掴んだ腕は、とても冷えていて…。

「…何?」

声も震えてるじゃないか。…何だよ、もう。

「うちに寄っていきなよ、温かいもの出すから」

このまま帰すなんて…出来ないよ。

「……うん」

渋谷の声が震えてるのは寒さのせい…じゃないよね。









「はい、飲みなよ」

熱いココアを出して、暖房の効いてきた部屋のソファに座る。渋谷がまだ震えてる気がして、隣に腰掛けた。

「サンキュ」

両手でカップを持ちながらホッと息を吐く姿に、左胸の奥がキュッと軋む。

「で?」

自分のカップをテーブルに置いて、渋谷を見る。

「え?」

「何があったの?」

渋谷の視線が揺れる。わかってる、わかってるさ、何が理由か、なんて。
でも…駄目だろう?聞かなくちゃ駄目なんだろ?

「…夢で、見るんだ」

「…ウェラー卿を?」

体が、一瞬ぴくりと動いた。その仕草だけでこんなにも苦しいなんて。
頷きながら渋谷は視線をカップの湯気に合わせる。

「夢だと…コンラッドは前みたいにおれの側にいるんだ。いつもみたく、キャッチボールしましょうって…笑うんだ」

「うん…」

「でも…目が覚めるとおれ、……泣いてるんだ」

冷静に、客観的に話そうとしてるけど、段々声に熱が籠もってくる。

「目が覚めてもコンラッドは何処にもいなくて…それが苦しくて、そんで夢でも泣いてたのに気づいたら…また泣けてきちゃって」

言いながら声が震え出す。カップの湯気は、もう見えない。渋谷の瞳が、陰る。

「おかしいよな、こんな事で…コンラッドがいないだけで、こんなにっ……」


−あ、ダメ。


「苦しい…なんて…」


ダメだ。渋谷、泣くな。


「すご…くっ…」


泣くな。


「……」


泣かないで…。


「……っ、く」


言葉が、途切れて代わりに渋谷の瞳から涙が溢れる。
渋谷自身その事に驚いているのか慌てて拭おうとするんだけど…一度零れた涙は止まる事は出来なくて。

「……ひっ…く」

あぁ…胸が震えてる。痛くて痛くて…きっと血が出てる。このまま放っておいたら失血死するかもしれない。…ねぇ、僕はどうしたらいい?

「しぶ…や」

伸ばした手は、宙で揺れて。指先はただ…空気を撫でるだけで…。
苦しいよ。どうしてこんなにも…僕が切ないんだろう?

「ごめ…いきなし…っ」

笑って和ませようとするけどその瞳からは涙が溢れてる。目の下が赤くなって、凄く儚く、か弱く見える。
ねぇ、だから、だから泣かないで。

「渋谷…、泣いていいんだよ?」

指先が、渋谷の肩に触れて…そこから胸の鼓動が逆に早くなってく。肩を抱き寄せれば……か弱い渋谷は泣いてしまう事も知ってる。
だけど僕も…苦しいよ。血が溢れ続けて涙腺を緩ますくらいに。

「むらた…ご…めん…」

「何謝ってんの、友達だろ?」

友達だから…泣いていいって言わなくちゃいけないんだろ?友達だから…感情を出しちゃいけないんだろ?…線を引いてるのは紛れも無い僕自身なのにね。

「っ……コンラッドに…会いたい…」

「……うん…」

「会って……笑ってくれたら…っ……戻って…きてくれたら…」

しゃくりあげながら渋谷は首にかかってる石を触り、首を振った。

「もう…離さないのに…」

「うん……」

壊れそうだ。左胸の奥が。…音も立てずにさっきからゆっくり崩れてるのがわかる。それは積み木遊びに似てて…積み上げるのにはこんなに時間がかかったのに、崩れる時は一瞬で…。
あぁ、酷いや。もう胸の中が真っ赤で僕の気持ちが見あたらない。


でも、頼ってくれた。

それが凄く、嬉しくて。


「村田…ゴメン」

「何が?」

「折角温かいのいれてくれたのに冷めちゃった…」

泣きはらした目を隠すように無邪気に笑われて、胸が震えた。

「本当だ、ぬるくなっちゃった」

そう笑ってみせると、渋谷はカップに口をつけてこっちを向く。

「…でも、おいしい」

飲む度に動く喉元を見て何だか無性に抱きしめたくなる。だけどそんな事、出来るわけなくて。

「おれ、本当は村田に話聞いてもらいたくて来たんだ…だから、ありがと」

呟くように言われた言葉が苦しい。どうして渋谷の一挙一動にこんなにも胸が騒ぐんだろう。

「わざわざ単語帳ごときでうちに来るなんておかしいと思ったんだよね」

「気づいてた?」

「なんとなくは、ね」

…嘘。本当は好きだからよくわかるんだよ。なんて伝えられるわけなくて。

「流石は村田だな」

笑いをこぼす渋谷に、口角を無理矢理上げて答えた。

「よき理解者でしょ?」

「…うん」

ふわりと、そう微笑まれたら血が止まった気がした。全く…なんて薄情なんだろう。

「なぁ…また、こんな気持ちになったら…来ていい?」

軽く視線を床に向けながらそう話す渋谷は酷く…愛しくて。

「…いいよ。いつでも」

僕はそう言うしかなかった。

「…ありがとう」

たったその一言で、満たされてしまうのだから。










「じゃ、またな!」

「はいはい、次からは先に連絡入れるなりしなよ。寒かったでしょ?」

「…勝手に足が村田んちの方向に進んでたんだよ。…それに、村田と会ったら寒く無くなったし」

…何。今の。

「僕と会ったら?」

「うん、お前と居ると安心する。なんかこう…コンラッドと居るときみたいに…」

「……そう?そりゃよかった」

「ん。そんじゃ、またな」

「じゃあね」



バタンと、ドアが閉まる音が胸に響く。リビングに戻るとソファに身を投げるように座る。暖房の効いた部屋は暖かい筈なのに何故か…寒い。

「…だったら、僕にすればいいじゃないか」

呟いてカップに口をつければ、甘くてぬるい味が広がる。なのにどうして苦い気がするんだろう。

あぁ、壊れそうなのは心じゃない、理性だ。微笑まれる度、頼られる度、苦しいくらい触れたくて。
でも、その瞳が僕に向けられていないってわかる度、苦しいくらい抱きしめたくて。


どうしよう。


渋谷を愛し始めてる。



end.