2月14日、晴れ。









午前7時。
渋谷の携帯が隣の部屋で野球の応援歌を響かせる。サビから始まるその軽快な音楽は割と直ぐに止められ、暫くすると渋谷の部屋のドアが開く音がする。
あぁ、もう朝なんだ…とカーテンを閉め切った部屋で薄目を開けた。周りが微かに明るいから、今日は晴れみたいだ。
直ぐにリビングで渋谷がカーテンを開ける音がして、その後ガチャ、と冷蔵庫を開けていつもお決まりの牛乳を取りだす音。
トイレに行って、洗面所に行ってドライヤーをかける音。
ぼーっとしながらその音に耳をすませる。
あったかいベッドで布団に包まれながら。
そこまで広くもないから、幾ら僕に遠慮してたってドアを突き抜けて音が届いてしまう。
控えめに付けたTVの声だって、渋谷1人で見てるならよく聞こえるしね。
7時半前のTVの天気予報は、今日は関東全域風も無くいい天気だとうたっている。
…じゃあ今日は、思いっきり野球が出来るね。




「村田」

それから数分後、TVを消して音と、聞こえる足音。
音を立てないようにドアが開いて、渋谷がベッドに近寄ってくる。
わざと目を瞑って寝てる振りをすると、カーテンがシャッと開かれる。

「っ」

目を瞑っていても差し込む光に思わず眉を寄せると、反射的に腕で目を覆った。
それに気付いた渋谷が笑ってる気配がして。

「おはよ、今日はすっげー良い天気だぜ」

そんなの知ってるよ。
そう心では呟きながら、細目を開けて渋谷を探す。
僕の目が悪いから結構近くまで顔をよせてくれて、それが僕にはとても嬉しい。

「んー…そうなの?良かったねぇ」

本当は腕を伸ばして抱き付きたいんだけどそうするとぬくもった布団が一瞬で冷えそうなのでしないでおく。
渋谷が出かけたらもう少し眠ろうかと思ってたから。
その代わり少しだけ唇を突き出してキスを強請ってみた。
毎日やってくれるわけじゃないけど、こうするとたまーに渋谷からのキスが頂戴出来る。
そして今日は、その日だったみたいで。

「ん」

柔らかい感触が唇に触れて、目を開けるとすごく近くに顔があって。
一瞬だけど幸せな時間だと思う。
渋谷の黒いダウンから流れる空気が冷たくて、ぐっと目を細めた。

「じゃ、行ってくるから」

少し照れ臭そうに言うその言葉が可愛くて、でも寂しい。
折角試験も終わって休みに入ったのに渋谷のサークルは毎日毎日野球に明け暮れていて。
今日も例の如く、早起きして出かけるんだ。
朝が早いのと、折角の休みだから村田はのんびりしてろよ、と言われて寝てる部屋も今は別。
折角、折角渋谷と毎日一緒に寝られると思ったのにさ。

「しーぶやぁー…行っちゃうのー?」

「うん、もうすぐ電車の時間だし」

「えー、やだー、行っちゃやだー」

甘えたくなって手を少し出すと、困った様に首を傾げて、その手を握ってくれた。
僕の手より随分冷たくて、不恰好で。でもこれが渋谷の手。
あーあ、この手を離さないでいれたらいいのに。


「村田くーん、おれ遅れちゃうんですけどー」

「一本くらい電車遅れてもいいじゃん、もうちょっと側にいてよー」

「えー?」

声とは裏腹に表情は楽しそう。
渋谷がこれで行かないって言ってくれたら、空だって飛べるのに。

「んー、でも今日はいい天気だからなー、野球がしたいなー」

そう言うのは解ってたけどね。
だって野球サークルに入ってから渋谷、とっても楽しそうだし。
好きな人のそういう姿って見てるだけでこっちも楽しいんだ。
だからいつも、優しい僕が折れてあげるんだ。

「じゃーもっかい、して?そしたら行っていいから」

「…村田が玄関まで見送ってくれたらいいけど」

「え、僕まだ寝てたいもん」

「じゃあ無しと言う事で」

渋谷だって毎度タダでは釣られない。
わざとそうやって50:50を要求する。その理由が照れ屋だからっていう時点で、憎めないんだけどさ。

「…うー…じゃあ、いってらっしゃい」

「あれ?見送ってくれないの?」

「だって寒いんだもん」

「この部屋エアコンきいてるじゃん」

「廊下が寒いし、リビングが寒いし、渋谷が出てったらもっと寒いもん」

「寒くねぇよ、全く村田はもやしっ子だから」

「もやしっ子じゃないよー、寒さに弱いの。それに朝勃ちしたままだし」

「朝勃ちは言わんでいいから」

「もー良いから行きなよ、電車に遅れるよー?」

「お、ホントにそろそろ出ないとだ」

ベッドサイドのデジタル時計を見ると渋谷はぱっと顔を上げて、ドアの方を向いた。
ちくしょう。やっぱり僕より野球なんだよなぁ。
でも、でも好きだから許してあげる。

「じゃ、村田、行ってくるな」

「うん、頑張ってねー…」

ひらひらと手を振りながら渋谷が部屋を出て行くのを見送ると、意を決して起き上がる。
椅子にかけてあったカーディガンをサッと羽織って、部屋から出る。
歩きながら眼鏡をかけると、渋谷が玄関で靴を掃く音が聞こえて。

「あれ、村田」

靴を掃き終えて、肩に道具を背負った渋谷が振り返る。
やっぱり廊下も玄関もとっても寒いんだけど、たまにはさ。

「渋谷がさっきちゅーしてくれたから、僕も見送りする」

そう言えば渋谷が一瞬止まって、それから珍しい、とでも言いた気に笑った。
珍しいと言えばそうなんだけどさ。
でもこの日だったら特別、珍しくも無いでしょ?

「ん」

渋谷の右頬に手を沿えて、小さくキスを落とした。
甘くも無いけど、甘いキスになる様に願ったからどうだろう。

「…チョコレートケーキを作るから、お腹を空かして帰って来てね」

「チョコレート、ケーキね」

「うん、中からとろーっとチョコが出るやつ作ろうと思ってるから」

「わかった」

「いってらっしゃい」

「おう」

バタン、とドアが閉まって暫くそこに立っていたけど、鍵を閉めてリビングに入る。
いってきますのキスで少しだけ心が暖かい。
今夜のイベントの約束でもう少し暖かい。
嬉しそうな渋谷の笑顔が見れて、もっと暖かい。

「へへっ」

エアコンのスイッチを入れてTVを付ければバレンタインの特集が始まっている。
美味しそうなチョコレートとは無縁の場所で渋谷は今日も泥だらけになってくるから。
僕が渋谷の為に用意するのは美味しいご飯ととっておきのケーキだ。
それと、二人っきりのバレンタイン・デー。





只今午前8時。
溶ける様な甘い時間までは、あと何時間?