うそつき







渋谷の姿が見えないと騒ぎだしたのは少し前。
僕はまだ、執務室に居た。

「猊下は、陛下がどこに行ったか心当たりありませんか?」

「…うーん、解らないな」

彼の事だから、ちゃんと戻ってくるよ。
そんな事を言って読みかけの資料に視線を戻した。
でも本当は、戻ってくるのか確信は無かった。

『待ってる』

彼が部屋を出て行くとき、僕の机にそっと置いていった切れ端。
そこにはたった一言、そう書かれていて。
どういう意味なのか一瞬で解ったけれど、僕はずっと動けずに居た。
どういう意図なのか、解らなかったから。

「…そろそろ僕、眞王廟に戻らなくちゃ」

いつも通り、何気無い様子で席を立つ。
まるで渋谷の事なんか気にしていない風に。
渋谷がどこにいるのかなんて、知らないみたいに。
だって僕は。

「…もう、恋人じゃないんだから」

逃げる様に城を出て眞王廟に向かう。
言い聞かせるように呟いた言葉は、自分の耳だけに酷く残って。
渋谷が僕を待ってて、僕がそこに行ったら何て、言われるんだろう。
今度こそ本当に拒絶されるかもしれない。
そうしたら僕は、ちゃんとしていられる自信が無い。
僕から拒絶したのに、あんなに傷つけたのに、渋谷が受け入れてしまう事が怖い、だなんて。
そんなのって、無い。

「猊下」

「?」

呼び止められてびくりと肩が震えた。
苦しい事ばかり考えていたから笑顔になる余裕が無くて、そのまま顔を上げるとそこには見慣れた人影があった。

「…どーしたんです、そんな顔なさって」

「…ヨザック」

気付けば眞王廟の近くまで来ていた。
堕ちようとする陽の光に反射されて、彼の髪が一層キラキラとして。
作り笑いをすることが出来ない。

「坊ちゃんなら、眞王廟に行きましたよ」

「…そう」

「猊下に、逢いに来たんじゃないですか?」

「…そうだよ」

僕に逢いに来たんだ。
渋谷は今でも、僕に逢いに来てくれるんだ。
それが苦しいほどに嬉しいのに。

「…あの部屋にいるんでしょう?」

「え?」

「猊下と、坊ちゃん以外は入れない秘密の部屋で、猊下が来るのを待ってますよ」

秘密の恋にしていたわけじゃなかった。
でも、誰かの口から僕らの事を言われるのは、初めてだった。
口をついて、言葉が出る。

「…知ってる、よ」

「…坊ちゃんが特別なら、そのままでいいじゃないですか」

「……でも、僕が渋谷の特別になるのは、駄目なんだよ…」

「ならどうして、気付かれたんですか」

そんなの。
昔の事すぎて解らないよ。
どうしてあの部屋を教えたのか。
どうして渋谷以外は入れない様に術をかけたのか。
どうして追いかけっこに捕まったのか。
どうしてあの夜、渋谷に焦がれたのか。
どうして心を預けたのか。
どうして愛しいと思ったのか。
どうして渋谷に、恋をしたのか。
どうして、どうして。
考える程に答えが見えなくて。

「…」

「坊ちゃんに想いを打ち開けてしまったのは猊下なんでしょう?」

「…でもっ、渋谷だって、僕を好きになってくれたっ」

引き金を引いたのは僕だ。
きっとあの時、油断して見せてしまったんだ。
本当の心は酷く無防備で、渋谷でいっぱいで、赤く、赤く腫れている事。
渋谷はそれを、見逃さなかった。
だから僕を探して、あの部屋に来たんだ。
靴も履かずに、息を切らして。
こんな僕の事をそれでも、好きだと言ってくれたんだ。

「…どうして貴方は、そんなに自分ばかりを責める?」

僕ばかり、じゃない。
渋谷だって凄く苦しんでる。
僕だけ苦しんでも意味が無いってもう、解ってる。
でも今が過ぎればいつかこの別れが、正しい選択だって思える日が来る筈なんだ。
そう思う以外に、渋谷を諦めきれる理由なんて無い。

「…だって僕には、渋谷を幸せに出来ない」

「それは坊ちゃんが決める事だ」

「だって、だって僕は、渋谷から貰った幸せに勝るものを、返せない!」

涙がこぼれてしまいそうで僕は駆けだしていた。
これ以上心と向き合うのは辛かった。
僕らだけの世界だなんて、思ってなかったけどそれでも、僕を許してくれる人が渋谷以外にいるのが苦しかった。
でもきっと、渋谷はもう僕の懺悔は聞いてくれない。

「…傷つけ合うのが、それが選んだ道なんですかっ…!」

苦しい。
苦しい、苦しい。
恋をしたから苦しいのか、恋が終わったから苦しいのか、もう解らない。
でも苦しい。
苦しい。
渋谷に、逢いたい。
今までで一番、渋谷に逢いたい。

「…しぶやっ…」

開いていた台座の隙間から転がるように廊下を走る。
足がもつれて、一度転んだ。
それでも僕は、渋谷に続く道を走った。
凄く怖くて仕方なかったけど、それよりももう、終わりにさせたくて。
でも、木の扉を開けた瞬間、舞い戻ってしまった。

「…」

夕陽が堕ちていく部屋のベッドで、柔らかな寝息を立てる渋谷。
その綺麗な顔立ちに、ただ立ち尽くした。
側に居るだけでこんなにも安心する人がいるなんて。
知らなかったよ。
渋谷。
渋谷。

「…渋谷」

一瞬、はるか昔の記憶がデジャヴの様に現れて、消えて行った。
柔らかな黒髪に、あの日以来初めて、触れた。
せきを切った様に涙が止まらなくて、それは段々と嗚咽に変わっていく。
渋谷が凄く、凄く好きなんだ。

「…村田?」

渋谷が目を開けて、僕を見た。
泣き顔なんて、見せたくない。
そう思った瞬間、渋谷の両腕に抱きしめられていた。

「…っ」

「…待ってた」

渋谷の胸に押し付けられて、覆い被さるように囁かれた。
ずっと離れていたのに。
あんなに我慢したのに。
渋谷のにおいで、いっぱいになる。

「しぶや」

「やだ、離さない」

「だめだよ」

「聞かない」

「だめ…」

「聞かない…っ」

「どうして」

「やだ、やだやだ…おれ、村田を愛してる。村田以外に誰も、要らない」

「しぶや、やだ、やだよ…」

心が折れてしまいそうだ。
渋谷を好きな気持ちと、諦めないといけないと思う気持ちがせめぎ合ってどうにかなりそうで。
逃れようとすればその分、苦しくて。

「いいよ、おれ、未来なんていらないから…村田が側にいてくれればいい」

「そんなのっ…嫌だよ、渋谷」

「…村田はっ、おれの事もう好きじゃないのか?」

そんな質問、馬鹿げてる。
好きに決まってる、好きでどうしようも無い。
僕の顔を見れば、直ぐにだって解るだろう?

「…っ」

なのに渋谷は、腕の力を緩めた。
顔を見たら、涙でいっぱいだった。
手を伸ばせば直ぐに拭える距離なのに。

「…おれ、ずっと考えてたんだ。傷つけられる方と傷つける方はどっちが辛いかって」

渋谷の言葉に、時間が止まる。
夕陽はもう堕ちてしまった。
窓の外には夜しか見えない。

「…」

「…おれ、もう村田を傷つけるのは、やだ」

心を返す時が、すぐそこまで来ていた。
でも僕は何も言えなかった。

「村田…おれの事、嫌いになったって、言ってよ」

渋谷の目から零れ落ちる涙が余りにも綺麗で、僕は一瞬言葉の意味を解読出来なかった。
嫌い、って?

「そしたらおれ、もう村田にわがまま言わないから」

渋谷の目はまっすぐ僕を見ていた。
全部が物凄い速さで終わろうとしている。
その鍵は僕が持っていた。
きっと僕らが、幸せになれるはずの言葉。
どういう意味かなんて、理解しようとは出来ないまま。


「…きらい、だよ」


無垢な子供がつられて口にするような純粋さを連れて、それは僕の口から出て行った。
それから渋谷は何も言わなかった。
ただ一度だけ、僕の唇にキスをした。
触れて、離れる、それだけのキスをして、部屋から出て行った。
そしてもう、戻ってこなかった。