三月末日、またここで会いましょう。





多分、長かった方だと思う。
大学に入って一緒に暮らしてから片手以上の年が経って。見慣れた部屋の見慣れた風景に染まって。
学生服から私服になって、スーツを着るようになって、夏が来て、冬が来て、また春が来て、繰り返して。
空気みたいな、家族みたいな、当たり前みたいな、それがいつまでも続くような。
そんな気はしてたけど、本当はしていなかった。
「なぁ、これ冷蔵庫に入れちゃうからな、明日忘れずに食べろよ」
「はーい」
バタム、と冷蔵庫のドアが閉まる音。シンクに水が流れて弾ける音。食器が擦れる音。TVの音。ふいに聞こえる、鼻歌。
「渋谷ー、コーヒー飲みたい」
「自分で淹れろ。あ、おれカフェオレで」
「洗い物終わったらで良いから」
ありがちなたわいも無い会話。頭を掻きながらコーヒーメーカーをセットする渋谷。じっと見つめると、ふいに振り向かれる。
「…」
「何だよ、おれの事見てたの?」
そうだよ、見ていたんだ。
ずっと、ずっと前から、

渋谷だけを。







玄関のドアを開けると、いつもはごちゃごちゃしているたたきが簡素になっていた。
渋谷のスニーカーや革靴が占領していた分すっかり空いてしまったその部分は、これから僕の靴で埋め尽くされていくのだろう。
「ただいま」
小さく呟いて、キッチンで手を洗う。そのままコーヒーメーカーの前に立つと、仕込んでおいたコーヒーをカップに淹れる。
黒い液体でカップを満たすと、ソファに座ってゆっくりとそれを飲み干した。
渋谷の荷物はもう無い。引越すつもりだと言って、全部実家に運ばせたから。
でもきっと、僕はこの家を離れる気はないんだと思う。
口では最後まで言わなかったけど、これがさよならだったんだと思う。いつかはまた戻るかもしれないけど、それは僕にはもう解らない。
「…」
渋谷が眞魔国に戻れば、きっと状況も180度変化する。その中でずっと一緒に居れるのかもわからない。環境も、文化も、職も違う世界で、それでも僕は渋谷の側にいたくて仕方無くなるんだろう。
そうなった時に自分のわがままで渋谷を縛るのも、傷つけるのも嫌だ。
それが、僕が決めていた答え。
今までと違う環境が正直億劫で、逃げ出したというのもそれはまっとうな理由だ。
でも本当は、もっともっと、単純な理由。
「…しぶや」
何年も側にいた存在がいなくなるって事がどんなに苦痛か、想像していなかった訳じゃない。
でもいつだって誰にだって、そんな別れは訪れる。だから、寂しいけど、辛いけど、受け入れなくちゃいけない。
ご飯を食べて、お風呂に入って、準備をして、会社に行って、仕事をして、帰ってきて、またご飯を食べて。それを一人でこなす生活に戻るだけだ、ただそれだけなのに。
「…」
がらんとした空間が、渋谷の気配が残る部屋が、匂いが染みついたソファが、ベッドが、写真が、暫くは僕を暗くさせるんだろう。
きっと、今日が来るまでよりこれからの方が、渋谷を想って泣く日が増えるんだろう。
愛してる。
「…知ってた」
愛してる。
「…今でも、ちゃんと」
それでも僕は、ここでの生活が好きだ。渋谷以外にも守りたい事、したい事が出来た。なのに、なんでこんなに泣けてくるんだろう。
「……くそ、後悔しないって決めたのに」
悔しくなって何か食べて気でも紛らわそうと、冷蔵庫のドアを開ける。渋谷が閉まっておいてくれたおかずを取りだすと、その下に何か置いてあるのに気付いた。
「…何、これ」
それは一枚の紙だった。渋谷が残したもの。そう気付いた瞬間、心臓がざわめいた。
震えそうな手で掴んで、それを広げる。見慣れた字が飛び込んできて、ドキリ、とする。
「…『マクラの下』?」
そこにはたった一言、そう書いてあった。
どういう事?
逸る気持ちを抑えて寝室に入ると、ベッドの脇まで急ぐ。
枕を持ち上げるとそこには、一冊の手帳があった。渋谷が使っていたものと同じ種類の。でもあれはもっと使い込まれていた様な。
手にとってページを捲ると、マンスリーには何も予定が書き込まれていなかった。
でも、日別のページを捲ると渋谷の字がたくさん書き込まれていて。
「…日記?」
それは渋谷の日記帳だった。
わざわざ会社用の手帳と同じ物を買って付けていたなんて。知らなかった。
ベッドに腰かけると、ページを捲っていく。日記を書き始めた日付は去年の12月からで、それは渋谷が眞魔国に行くと決意した頃なんだろうと思った。
仕事の事、家の事、クリスマスの事。所々抜けているけど渋谷の胸の内がそこには書いてあって、まるで渋谷がそこにいるみたいで。
時間が経つのも忘れて二月末まで読んで、三月に入ろうとページを捲る。
するとそこからは、毎日同じ言葉が書いてあった。
「…」
胸が詰まるかと思った。
バカなんじゃないかって、思うくらいに。
だって渋谷は、こんな事一度だって言わなかった。
もしこれがエイプリルフールだって言われたら、納得してしまうくらいに。
愛してる。
ただ、それだけが毎日書き連ねてあった。
「…何、だよ」
一言だけ、毎日、紡ぐように。馬鹿の一つ覚えみたいに愛してるって。
それは渋谷の心からの、言葉。
そして、最後の日にはそれと一緒に、もう一文。
「………っばか!」
何だよ、何だよ、何だよ!
それを見た瞬間、僕は叫んでいた。
想いが胸の底から湧きあがって、どうしようも無くて。
手帳を掴むと、玄関にダッシュする。もう間に合わなくても、無理でも、どうしても。
靴を引っ掛けて、玄関のドアを開ける。勢いに任せて外に飛び出す。すると。
「っ…村田?」
「…は、…あ?渋谷?」
さっき駅で別れた相手がそこに居た。
いつも通りに別れようって決めて、駅で見送ってきたばかりだからまだ実家にいると思ってたけど。
まさかここにいるなんて。
どうして?
「…ご、ごめん。おれ…」
言いにくそうに言葉を濁す渋谷を見たら、わけがわからなくなった。
どうしようもなく愛しくて、多分一生側にいたくて。
気付いた時には、渋谷の横っ面を引っ叩いていた。
「っ!」
パシン!と景気の良い音が響いて、渋谷の首が横に振られる。左の頬を叩いたのは、そういう意味じゃ無いんだけど、無意識だからもう解らない。
「…っ、馬鹿!」
「って…何だよ、いきなり…」
「それは僕のセリフ!渋谷こそ何だよ!これ!」
「あ、それ、見たんだ…」
「見たんだ、じゃないよ。何だよこれ、何だって最後にこーいう事するんだよ、ふざけんなよ、そういうのはなぁ、直接言えっての!」
「ちょ、ちょい待て村田!ここ廊下だから!取りあえず家入れ!」
「っつ」
ぐいぐいと押されて家に入ると、渋谷が驚いた顔で僕を見る。僕だってこんなに激昂したのは久しぶりで息が上がっている。
玄関先で靴も脱がずに振り向くと、渋谷の目と視線が絡む。
「村田、何でそんなに怒ってるの?」
「渋谷がちゃんと言わないからに決まってるだろ!」
「な、何を…」
戸惑う渋谷に日記の開いたページを突きだす。三月三十日、愛してる。の後に書いてある言葉。
『いつか村田を攫いにいくから』
「いつかじゃなくて、今!攫ってよ!」
「…え、でも、だって…村田」
「何で言ってくれないんだ、そういう事。渋谷はいつだって僕の事ばっか尊重して!きみは魔王なんだよ?僕はきみの命令ならいつだってどこにだって着いて行く。そんなの解ってるのに、どうしてもっと強引に引っ張ってくれないんだよ」
「だ、だっておれ言ったぞ!着いてきて欲しいって、ちゃんと!」
「『欲しい』じゃなくて『着いて来い』って言ってくれなかった!」
「はぁ?な、何だよ村田、それが原因なのかよ!」
「違う、そんなわけあるか!」
「ええ?もう何だよ…」
困った顔をして眉を寄せる渋谷。僕ももう、何だか解らない。
「だって、だって渋谷は一度だってこんな風に愛してるとか、そういう事伝えてくれなかった。なのに最後にこういう風に全部残して行くなんて酷くない?酷過ぎるよ!別に恋愛第一じゃないけど、渋谷の事は世界で一番愛してる、僕だってずっと離れたくない、でも一緒に行ったらきっと渋谷は僕の事構う暇がなくなる、そんな時に冷静に側にいる自信なんて無い、だってきみの婚約者だって娘だってあっちには居るんだ、それならいっそ距離を置いてしまった方が僕の精神衛生上良いって思ったんだ、だから渋谷を傷つけてまで別れを選んだ、なのに渋谷はこうやって僕の事想ってくれるから…」
「…」
怖かったんだ。
渋谷の一番である事が、一緒に行くことで失われてしまうような気がして。
誰かに取られる事が、怖くて怖くて。そんなに渋谷に依存してしまった自分が、浅ましくて。
でもそんな自分でも欲してほしくて。心から、渋谷の一番深くて太い所から、全部僕を求めて欲しかった。
諦めてなんて欲しくなくて、焦る様が見たくて、理由をつけて突っぱねたけど。
最後の最後に、渋谷の想いの深さに気付くなんて。
バカだな。
「僕の事、諦めてほしくなかったんだ…」
「…バカ、おれだってそう思ってたんだぞ!村田に振られておれがどんなに傷ついたか解ってんのかよ!」
「…ごめん、でも、僕には渋谷しかいないんだ」
ずっと、ずっと言えなかった言葉。プライドが邪魔して一度も弱音を吐けなかった。本気で言ったら重すぎると思って、でもずっと伝えたかった。
「もう、ずっと前から僕にはきみしか見えない」
「村田…」
「怖いよ、渋谷が僕を捨てる事が、僕から離れていく事が。だって好きなんだ、どうしようもなく好きで、好きで仕方無いんだよ」
黒い想いを吐き出すにつれて、声は震えて目頭は熱くなる。だってこれが本当の、僕の心の底にあった気持ちだから。
まともに目が見れなくて玄関先にへたれこむと、渋谷が覆い被さる気配がした。
もう二度と、抱きしめあう事も出来ない、なんて思っていたのに。
「…ばか、んなの、おれも同じだっての」
渋谷の声も震えていた。
「お前がおれと一緒に来ないって言った時、すげぇショックで仕事も手に付かなかった」
思い出しているのか、僕の背をぎゅっと抱きしめて少しだけ肩を震わす。
「あんなに側にいて、今でもこんなに好きなのにそれはおれだけだったのかって、凄い苦しくなって。でも受け入れようって必死になって。怖くて、何で着いてきてくれないのか、おれの事より大事なものって何?とか、そういうこと考えた」
「…」
「…おれと一緒にいなくても大丈夫なんだって、思った。いつか、こっちで……結婚、とか、そういうのして、離れていっちゃうんだって」
「そんな事、無い」
「でも、あんな風に言われたら誰だってそう思うだろ?引っ越しするから荷物は実家に送って、とか…そう言われておれがどんなに苦しかったか…!」
「…ご、めん」
「おれがもし、お前をいつか攫いに行ったとしてもその時手遅れだったらどうしよう、とか、すっげえ不安になって、やっぱりこのままじゃ帰れなくて…なぁ村田、おれだってお前の事マジで好きなの知ってんだろ?」
「…」
何か声をかけてあげたい。でも胸が詰まって言えない。
渋谷の事を本当に、本当に傷つけたのに。僕を諦める理由なんて山程あるのに、それでも今、こうやって抱きしめてくれている。
それだけでもう、死んでもいい。
「…おれだって、色んなものを置いていく覚悟であっちに行くことを選んだんだ、家族も、友達も、仕事も、居場所も。でも、村田だけは諦められなかった。だから…」
あの日、プロポーズしたんだ。
その言葉は息を飲む音に消された。
渋谷の声が、想いが、溢れて、やっと届く。
ごめんね。ごめん。
何度言っても足りなくて、でも、それよりも渋谷の事を、愛してる。
食らいつくように唇を重ねれば、渋谷の舌が滑り込んでくる。
「っ…」
「…っふ、ぁ」
「…く…」
「…ん」
唇から熱を分け合う程に、渋谷の想いが流れてくるみたいで。
それが泣きたくなるほど嬉しくて、切なくて。
「し…ぶやっ…」
渋谷の首筋に鼻先を埋めて、匂いをいっぱい嗅いでから唇を押しあてた。柔らかくい肌はほんのり温かくて、力を入れたら血を滲ませてしまいそうな薄さで。
舌で舐めるとそのまま吸いつく。きゅ、と跡を残すくらいにきつく。
「っ…むら、た」
掠れる声が愛しくて、そのまま背に手を回す。腰を撫でれば、抱え込む様にしがみつかれて。
「欲しいよ」
「ば…か」
声は震えて、涙に濡れていた。
だけど言葉の意味とは正反対に甘く、柔らかい響きだった。
「渋谷が全部、欲しい」
だから僕もゆっくりと、自分の本当を伝える。
少し伸びた髪が頬に当たって、くすぐったくて、でも、それだけで生きていける気がして。


「…やるよ、お前になら、全部」



その仕草も、声も、全部を僕はもう一度、ここで手にした。