三月中旬、夜空のむこうに。
「ったく、渋谷が飲み過ぎちゃ意味無いんだけどー」
「んー、だいじょぶ、そんなに酔ってないから」
「もう、どの口が言うんだよ」
ふらふらになって数歩先を歩く渋谷に、呆れながらも付いて行く。昼間の電話では酔わないって宣言してたくせに、結局いつもの通りの千鳥足だ。
ビールから始まって焼酎に移行したまでは良かったんだけど、ペースが速過ぎだった。そのまま酔い潰れる前に止めたけど、店を出て酔いが回ったのか、支えは要らずとも足取りがおぼつかない。
「本当は僕が酔って介抱されるはずだったんじゃないの」
こちらと言えば、少しは体が温かいけど酔っているとは程遠く。元々酒には強い方だし、無茶もしないから至って素面でいられる。それが今はちょっとだけつまらなくも思えるけど。
渋谷が昼間言った通りさっきまで草野球時代のメンバーで飲んでいた。変わらない仲間と思い出話、近況等を酒のつまみに酌み交わしていたらあっという間に解散の時間となっていた。今は皆、仕事をしている身でもあるからそんなに遅くまではいられない。居酒屋の前で別れた後、二人っきりになった僕等は約束を果たすべく、渋谷の通っていた高校の前に来ていた。
「まだ桜の気配も無いねー」
「おう、そうだなー」
裸の桜の木を見上げながら息を吐けば何だか少し白い気もする。パーカーの上に僕が持って来たジャケットを羽織っているから、そんなに寒くは無い筈だけど。
街灯の明かりだけで渋谷の横顔を見ると、それはぼやけた様に見える。
「手でも繋ぐ?」
「ん」
冗談めかして言うと、それを待っていたかのように右手が直ぐに差し出された。その潔さに不意を突かれると、見透かした表情でこっちを向かれる。
「これだけ酔ってりゃ、介抱に見えるだろ」
その瞳は、少し照れたような、まだ少年っぽさを残した僕の好きな瞳で。
お酒の所為なのか、ぶっきらぼうな物言いをしない珍しさに胸が鳴る。ざわ、と。
「…何だかなぁ」
「何が?」
赤くなる頬を悟られなくて良かった、と思いながら右手に左手を重ねれば、それはとても温かく。ぎゅ、と組み合わせてみたらそれは俗に言う恋人繋ぎになる。
「渋谷はずっと、変わらないなって」
「どこが?」
不意を突いて僕をドキドキさせてくるところとか、手が温かいところとか、後姿や横顔が愛しいと思えるところ。
それはきっと、僕の渋谷への想いがずっと、変わらないということ。
「全部、かな」
「それ言ったら村田だってそうだろ?」
ぽつぽつと歩きながら、胸がじんわりと痺れる。それはきっと、今までこんな風に手を繋いで歩くことが無かったからかもしれない。
「僕は変わったよ、眼鏡もここ数年で3回変えたでしょ?ココアも好きになったし、大学も卒業したしー」
「で、おれが反対してるのに煙草吸うようになったりな」
「う、あれはたまーにじゃん。たまーに」
「まぁな、でも変わってないよ、中身は全然」
「…そう?」
「うん」
「……それってさ、渋谷の僕に対する気持ちが…ずっと、変わってないって事でしょ?」
多分、それは僕が言った理由と同じなんだろうと思ったから。
言い切ってからそっと渋谷の方を見ると、渋谷も僕の方を見ていた。
面喰った顔がとても、可愛くて、切ない。
それでいて、泣きそうになるんだから。
「ばかだな、渋谷」
「え?」
―泣くなよ。
そう眼で諭すと、渋谷はそれを拒むかのように瞳を潤ませて。
あっけなく、恐らく渋谷の意思とは関係なしにそれは、零れ落ちた。
「………ばかは、村田だ」
非難がましい目をされる。こんな形で泣くつもりじゃなかったのにって。
そんな顔されても、僕が男だって実感させられるだけなのに。
「…っ」
右手で手首を掴んで、体を傾けて。
ガシャ、とフェンスが鳴る音がするまで渋谷はされるがままで。
息を吸い上げた口に舌を潜り込ませてやっと、生唾を飲み込む音が聞こえた。
「んっ…」
とっくに気付いていた。
あの日から、渋谷の心に穴が空いているのを。
そのきっかけが僕だったなら、包帯を持っているのも僕でしか無いけど。
でも、僕は変わったよ。
渋谷。
「…っは、む、らた、ここ、公共の場だって…!」
「ごめん」
「あ、ちょっと…マジで無理…っ」
「ごめん、ごめんね、有利」
「あ…」
拘束した手を緩めれば渋谷の抵抗も止んだ。名前を口にすると困ったように瞳が揺らいで、かち合う。
「ごめん」
「…っ、どーいう、意味だよ…」
「…一緒に、行けなくて」
呟けば苦い顔になって、僕から避ける様に目を逸らす。
ああ、やっぱりまだ気にしていたんだ。
「そ…そんなん、もう、ずっと前に聞いたよ!」
「うん」
あのクリスマスの日。
僕は渋谷にプロポーズをされた。
眞魔国に行こうと思う。と切り出した後に、僕の目を見て、真っ直ぐに。
『おれに着いてきて欲しい』
その言葉が何を意味するか直ぐに解った。でも次の瞬間、僕の気持ちも決まっていたんだ。
『僕はここに残るよ』
そう告げた瞬間の渋谷の顔が、今でも鮮明に思い出せるからこそ、何度だって言いたくなる。
ごめんね。
悲しませたくなんか無かった。
「くそっ…村田はさ、結局おれの事、好きじゃないんだろ?」
渋谷の口から想いが吐露していく。酒の勢いに任せてなのか、今まで言わなかった事を投げつける様に。
「好きだよ」
「だったら、だったら何で、おれと一緒に来てくれないの?」
「僕はまだ、こっちでやりたい事があるんだ」
「んだよ、それっておれより大切な事なのかよ、おれの事好きって言うのに、おれのお前に対する好きを満たしてくれないなら、やっぱり村田はおれの事なんか好きじゃないんだ」
「好きだよ、大好きだよ、そうでなきゃ一緒に暮らしたりなんかしないよ」
あんなに二人で紡いだ時間が、嘘な筈無い。
そんなの知ってる、だけど現実と理想と、自分の気持ちとの折り合いが付かなくて渋谷は傷ついてる。
「じゃあ、何で…おれの側にいてくれないの?」
まるで子供みたいに感情を剥き出しにして。あれから一回だって、こんな風に言ってきたことは無かったのに。
「永遠に別れる訳じゃ無いよ」
「でも、離れたらきっとダメになる。おれ…」
だからだよ、とは流石に言えない。
渋谷が眞魔国に行く時に、僕と言う存在を側においてはいけない気もしていたから。
勿論それを気にしての決断では無いけど、言い訳の一つにしておきたかった。
「有利」
多分、きっと、こういう日が来る事をお互いにどこかで予想していたのかもしれなかった。
だから渋谷は今日までわがままも言わなかったし、僕もこの手の話題を避けてきた。
「僕の事で、きみの決意を揺らがせないで。どこにいたって、空が繋がって無くたって、僕は有利を想うよ」
渋谷はもう、何も言わずに俯いていた。
欲しいものはいつだって、望めば必ず手に入るものではないと知っているから。
僕達はやっぱり変わった。
もう、出会った頃の様な子供じゃないんだ。
「…解ってる」
「…」
「…おれは、もう決めたんだ」
知ってるよ。
ぜんぶ、ぜんぶ。
「有利、僕はね、有利のそういうところが好きだよ」
「…」
自分の道を自分で決めて進めること。そんな勇気や強さは、ずっと光になって僕を照らしていた。
「だから僕も、ちゃんと決めたんだ。有利に誇れる僕でいたいから」
自分を見失わずにいれたのも渋谷のお陰だから。
別れを選んだ訳じゃない。
進むべき道を、お互いに歩くだけだ。
「…村田」
「……ずっと、愛してるよ」
小さく呟いた声が濡れているのに気付いたけど、渋谷の目をゆっくりと見つめた。
繋いでいた指がそっと瞼をなぞって、渋谷の唇が僕のに触れる。
冷たい感覚とは反対に、涙を拭う指は温かかった。