三月上旬、霧雨。





「ただいまー」
玄関から聞きなれた声が微かに聞こえて、おれはコンロの火を点けた。
メールの返事を打つ前に帰ってきてしまった同居人の為に味噌汁を温めてやりながら、エアコンの温度を若干高めにする。
何故かと言うと、外から帰ってきたのに家まで寒い寒い言われるからで、おれとしては不本意なんだけどその辺りはまぁ、仕方無いと思ってやる。
「ただいまー!はー寒い!」
「お疲れー」
三月と言うのに寒い夜もまだ続き、春の雨と言わんばかりに空模様もよろしくない。村田の髪は降り始めて来た霧雨でしっとりとしてしまっていた。
「何だよ、傘は?」
「だってあんまり降って無かったからさ、折りたたみだすの面倒くさくって」
カバンだけ置くとタオルを取りにドタバタと洗面所に向かう。おれは炊飯器からご飯を盛ると、テーブルの上に置いてやる。
戻ってきた村田は髪の毛が乱れていて、無造作に拭いたのだと一目で解るくらいだ。
「別におれが家にいるんだから干しといてやるのに」
味噌汁をよそって、丁度席に着いた村田の元へと持って行く。目の前に差し出すと、嬉しそうに微笑む村田と目が合う。
何だよ。そんなにおれが作ったメシが嬉しいのか?
「ん?」
「いや、渋谷が僕の為にご飯を毎日作ってくれるなんて嬉しいなぁと」
「だっておれ、平日はお前もいないしする事無いんだもん」
「そりゃ、僕だって働かないと食べていけないもんね」
いただきまーす、と箸を取りながら左手を汁椀に添える村田に苦笑する。
それはそうだけど。でも村田はそれ以上に、仕事が好きなんだと思う。
院にだっていけたのに、敢えて就職することを選んだのも早く社会に出たかったからと言っていた。
「なぁ、今日は一緒に風呂でも入る?」
「え?」
「背中でも流してやろっか」
それに寒いし、と後に続けてみると、村田は味噌汁を一口啜って、ごくんと喉を鳴らした。
「それはお誘いって事?」
「…まぁ、お好きなように」
何気ない風で言ったつもりだけど、やっぱり指摘されると恥ずかしい。別にそういう気持ちになった訳じゃない、何て言えないけど。
「寒いのとお風呂に一緒に入るのは関係無いと思うけどね」
おかずを口に運びながら頬を緩ませている村田に視線だけで返しながらおれも味噌汁を口にする。
一体いつからおれは村田に欲情したりする様になったのかな。
もう随分昔の事みたいで、思い出そうとしても難しい。
でも今も、思いっきり抱きしめて濡れた頭を撫でてやりたい、とか思う自分は村田の事を好きなんだと思う。
「たまにはスキンシップもいいだろ」
「スキンシップねぇ、そんな言葉で包まなくても、僕らしかいないんだから大丈夫だよ」
「ばーか」
そうか。こういう時間ももう直ぐ無くなるんだ。当たり前みたいな生活も、全部。
「な、村田」
「ん?」
「今月はさ…出来るだけ真っ直ぐ帰ってこいよ、おれ毎日夕飯作ってるから」
「うん」
頷くのと同時に応えながら村田は笑った。
どうせ思い出もぬくもりも、いつの日か無くなるのも解っているけど、今は誰よりもきっと、側にいたい。
「そんでさ」
「ん?」
「響かない程度に、セックスしような」
「ぶっ」
「うわ!村田!」



大事なものが同じ位置にあるけど、おれが迷う事を選ばずにすんだのはきっと、この時間のお陰だから。