喪失






「怖いんだ」
渋谷は僕にそう告げると足元にあった小石を蹴って、それを追いかけるようにして足を速めた。最近凄く凄く悩んでいる様子の渋谷に一緒に帰ろうと誘った草野球の帰り、以前とは違った空気が僕らを包んでいた。何でも1人で抱え込む渋谷はここ何回かの練習にはちゃんと精を出すものの、終わった後は直ぐに自転車に乗って帰ってしまう。別に約束しているわけじゃないけれど僕を置いて先に帰ってしまう事が少しだけ悲しかった。だから今日はわざと自転車を置いて行った。パンクしたと嘘を吐いて、渋谷の自転車に荷物を入れさせて貰って。渋谷は曖昧な笑顔でそれを受け入れてくれて、そんな仕草に苦しい気持ちで一杯になる。優しい渋谷の一面を知っているからこそ、突然の変わり様に心は方向性を見失ってこちらからも黙り込まずには居られなくなる。ああ。こんな気持ちになったのは何時振りだったろうか。小さく苦笑するとそれでも僕は渋谷を諦める事だけはしたくないと思った。だから無理して、どうしたの?何かあったの?と聞いてはみるけれどその度に渋谷は早くこの時間を終わらせたいとでも言うように別に、と言うだけで。それが益々僕の心を暗くして、渋谷の興味を引けない事がとても悲しかった。それが誰であろうと優しくされた過去があるなら悲しいと思ってしまうのだろうけれど、殊更この仕打ちは痛いと感じた。だって他の人には同じ様に笑うのだから。僕にだけこんな態度を取るのならそれはあっちの事が絡んでるとしか思えなくて。いや本当は、僕に愛想を付かしたのかもしれないと思っていたけれどそこはどうしても考えたくなくてわざとその部分だけ見ない事にした。そうして僕が黙り込んだら益々帰り道は暗くて苦しい時間になって、息をするのが苦しい程だった。そんな自分が笑えて、渋谷がムカついて、悲しくて、泣きたくなってでも我慢して代わりにもう一度聞いた。最後の望みを込めて、本当に?と。先程の答えから2分は経っていたのに渋谷は下を向いて、間を置いた。僕はそれだけで随分満たされるのを感じた。馬鹿らしい話だけれど、即答されるのがこんなに悲しい事だったと初めて気付いたんだ。そして渋谷は呟いた。
「怖いんだ」
「何が?」
渋谷は黙って自転車を押して、そのまま歩き続けた。悲しみの影はゆっくり僕の足元に落ちて傾きかけた夕陽が恐ろしく長く伸ばす。渋谷の一言で些細な棘が抜けて随分楽になれた気がした。まだ僕に相談をしてくれるのだと思えばそれだけで、思わず笑いが漏れるくらいに安心した。渋谷の隣に添うと彼の言葉を聞こうと耳を傾ける。怖いものなんて、きっとたくさんあるだろうに。
「なくすのが怖い」
渋谷の視線はアスファルトしか見てない。一定のリズムで揺れる影は背中にかかるカイロの証で、前の渋谷だったらこんなときもっと笑って居てくれたろうにと思った。
「何をなくすのが怖いの?」
何時からこんな風に関係が変わってしまったのだろう。今じゃたった一言を貰うだけで心が浮いたり沈んだりしてしまう。自分が放つ言葉に責任と期待を込めている事に情けなさも感じて、素直になれない自分を弱いと感じた。
「今の関係」
「今の?」
「なくしちゃったんだ、本当は」
渋谷は足を止めて、この世の全てが不幸にしか見えてないような顔をした。それは本当に悲しそうに揺らいで居て、まるで親しい人が離別してしまったかのようだった。それでも僕が素直に手を伸ばせずに居ると渋谷はそっと目を瞑った。僕は余りにも臆病になった自分がとても嫌だと思った。
「渋谷」
やっと言えた言葉は隣に居る人の名前だった。それだけしか僕には言える言葉は残っていなかった。渋谷はゆっくり僕を見て、苦々しく顔を歪めた。僕にはそれが酷く長い一瞬に思えて夕陽が暑すぎる事さえ忘れた。
「おれが親友だと思ってたお前を、なくしちゃったんだ」




そうして渋谷は僕の前で初めて泣いた。